国際プロレス 三沢追悼特集EAST
三沢追悼特集WEST

追悼 三沢光晴 〜まださよならは言いたくない〜

三沢×橋本タッグ対決

丁度、日付が6月14日に変わった頃、まだ仕事の最中に1本の電話がなった。 その後、別の人から2通メールが来た…。

全て、プロレス好きのお客さんからで、内容はプロレスリングNOAHの三沢光晴選手の訃報だった。

最初は、電話で聞いたが全くピンと来ずにいた。 日本でも1、2を争う受身の達人である三沢がバックドロップで死亡?! …ないでしょ?としか言いようがない。

でも、また別の人からメールが来る… 更に…

帰って、いの一番にインターネットでニュースを探した。
誤報であって欲しかったが、事実を確認してしまった…。

今から遡る事、26年程前。 ぶっちゃけ、馬場派の私でも、全日の前座は眠い試合が多いと感じでいたが、その中でひと際声援の多い若手がいた。

「ミサワーッ!」…ミサワって誰?!
当時、そんなにフィルムを沢山買う小遣いもないので、大抵前座の試合は写さなかった。
然し、この三沢はまだ若手なのに、すごいバネを生かした技を繰り出すし、とりあえず人気もあるみたいだから、写真も撮っておけ!
ってノリで写したのが三沢選手との最初の出会い。
と言っても、実際に使える写真は、今回の越中戦だけ。 その後、2代目タイガーマスクを含め、彼の写真は増え続けた。

四天王時代が、全日の一番儲かっていた時期だ。 そのファイト内容は、ある意味“過激なプロレス”と称していた新日を上回る危険さだった。 しかし、私は馬場&鶴田で育った人間。 その両選手が、一線から外れだした頃から少し感心が薄れ始めた。 完全に観なくなった訳ではないが、余り会場にも足を運ばなくなった。 同じ行くならと、UWFやFMWなどの王道と対極にある新しいプロレスに走るようになった。

しかし、1999年に馬場さんの死去、そして2000年、NOAHの設立。 ここで、再び新しい団体に深い関心を持つ。 そこには 、再び進化した王道プロレスがあった。 丸藤やKENTAの成長もあり、感動のプロレスを体感できた。 感動で涙がでてきた試合もあった。

ただ、進化し過ぎたのか? 危険な角度から落とす技が当たり前になってきた。 これで、首の骨をやられない方が、おかしいよって!

そして、悲劇は起きた。 然も、受身の天才にその不幸は襲い掛かった。 違う意味で、涙する事となってしまった。

三沢選手は、私と同じ46歳。 まだまだ、これからのある選手だ。 本当に無念で仕方がない…ありきたりの言葉だが、謹んでお悔やみ申し上げます。

そして、急遽ネガを探した。 ここは、あえて昭和にこだわらず、1983年〜2008年までの写真を公開します。 若手時代、タイガー時代、四天王時代、NOAH時代と撮り続けてきた中から、三沢選手の勇姿を改めて焼き付けて頂ければと思います。

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